メールマガジン 境界性人格障害と僕 そして情緒不安定性人格障害

境界性人格障害と僕
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境界性人格障害と僕




 2005年1月、僕は境界性パーソナリティー障害と診断されました。この時を境に、僕の人生は大きく変わりました。このことについては、これから少しずつ書き記していきます。あるいは少し長い話になるかもしれません。 リストカットをしたのは、おそらく5年前になります。当時僕は中野区で一人暮らしをしていました。夏から秋へと移り変わる頃でした。

夜の九時頃、裸の僕は、新しいソックスとトランクスをはき、しわのないシャツを着て、ネクタイをいつもより丁寧にしめ、いつものスーツに袖をとおし、きちんとした格好をしました。そして、バスタブにお湯を溜めました。それから効うつ薬と睡眠薬を何十錠か手に取り、キリンビールで胃の中へ流し込みました。それからの記憶はあまり定かではありません。その後、その格好でバスタブにつかりました。さっき近所のローソンで買ってきた女性用顔そりカッターは、意識の遠のく前に、バスタブのすぐ手の届くところに置いておきました。

 突然息苦しくなったのは、札幌発東京行きの飛行機のエコノミークラスの席についた時でした。それが、僕にとってパニック障害の初めての経験でした。気が狂いそうでした。手のひらはたっぷり汗をかいていました。「早くここからでたい」この思いで僕の心はいっぱいでした。飛行機が飛び立つ前に僕はすぐにフライトアテンダントに頼んで、飛行機の外に出してもらいました。しばらく搭乗口の近くにあるベンチに座り、呆然としていました。自分に何が起こったのか全く分かりませんでした。僕はもともと閉所恐怖症だったのでそのせいなのだろうと思いました。
 東京へ帰る方法は電車しかありませんでした。夜行列車の北斗七星に乗りました。まるで、深淵に落とされた気分でした。窓の外には雪景色が無表情に見えていました。寝台の1階で僕は、ただただ北斗七星が東京に着くのを待つばかりでした。北斗七星が東京駅に着くと少し心が落ち着きました。この日は何もせず家に帰り夜を過ごしました。
 パニック障害の病名を知るまでにそんなに時間はかかりませんでした。本屋で閉所恐怖症関連の本を読んでいたら、そこには「パニック障害」という文字が書いてありました。それから僕は何冊もパニック障害関連の本を購入しました。もう床屋さんに行けなくなりました。飛行機にも乗れません。悪化したのか電車にも抵抗を感じる様になりました。僕のサラリーマン生活はあっさりと終わってしまいました。
 間もなく通院生活が始まりました。2週間に一度総合病院に行き、処方箋をもらい処方薬を飲む。一日三回、規則的に飲む。そんな日々の繰り返しでした。でも、3ヶ月くらい経つとODが始まりました。今思えば現実から逃避したかったんだと思います。アルコールと一緒に飲むようにもなりました。毎日毎日自分の体を痛めつけていました。通りに止めてある自転車を片っ端から蹴飛ばして倒したり、友人と殴り合いしたりと、とても醜い言動でした。そんな僕でしたので、彼女にふられたのは当然でした。

 生きるのが辛くなった僕は近所のローソンに女性用顔そりカッターとキリンビールを買いに行きました。女性用顔そりカッターを左手に持ち、右の手首を1回切りました。女性用顔そりカッターを右手に持ちかえて、左の手首を3回切りました。左の手首には2本の白い筋が見えました。痛みは全く感じませんでした。痛みを感じないというのはとても不思議な感じでした。あの血だらけのバスルームの光景はいまだ心に鮮明に焼き付いています。
 僕を助けてくれたのは、たまたま訪れていた友人でした。友人は、ついにやってしまったんだ、という顔で僕を見ていたと、僕は記憶しています。救急車はすぐに音をたてて僕の家に来ました。僕の意識はまだありました。救急隊員の人は濡れた僕の体を抱き起こし、「手は開けたり閉じたりできますか?」と聞きました。僕の手は動きました。「はい、動きます。そんなことより、おじさんの体も濡れちゃうよ。」僕は言いました。救急車で運ばれているときの記憶はほとんどありません。次に記憶があったのはどこかの救急病院の中で手術台の上に横たわっていた時でした。医者は僕の手首を事務的に縫っているようでした。友人が連絡したのか、病院には家族皆がそろっていました。不思議なことですが、僕はその時深淵を漂っていて、心が平和で満たされていました。生きているような、死んでいるような。結局、手首が縫い終わると入院はせずに病院から出ることになりました。
 病院を出た瞬間でした。声も出ずに急に涙がぽろぽろとこぼれ始めました。その涙が一体何の涙だったのかいまだに分かりません。あるいは、死ぬことが出来なかった悔しさの涙だったのかもしれません。



パニック障害と診断されてから3年が経ちました。季節は春。場所は江東区。時刻は夜中の3時。まだ肌寒さが残る。僕はカブバイクにまたがり朝刊を配っていました。自分で丁寧にチラシを入れた新聞をカブバイクの前かごと荷台に固定して、僕はポストからポストへと移動しておりました。晴れの日も雨の日も台風の日も変わりません。雨の日は新聞が濡れないように気を使わなければなりませんでした。夕刊は午後3時。集金もやっておりました。
 ずっとサラリーマンをやっていた僕は今、新聞を配達している。パニック障害の僕は電車に乗らなくても済む新聞配達の仕事を選びました。いいえ、選ばざるを得ませんでした。新聞配達は楽な仕事ではありませんでした。肉体的にも精神的にも。朝刊を配り、夕刊を配る。集金の時期が来れば集金をする。パニック発作がひどい時は、10階建てのマンションもエレベーターを使わず階段で上り下りをしていました。仕方がないと自分に言い聞かせていました。階段の上り下りも慣れてくれば楽になります。仕事を始めてから3ヶ月くらい経つと、僕の配達区域にいる猫はほとんど覚えました。茶色い猫が一番多くいました。野良猫だったり飼い猫だったり沢山いました。僕は猫が好きですので猫を見ていると仕事の辛さが多少和らぎました。雨の日はどこに行ったのか猫の姿はどこにも見当たりませんでした。
 あれは真冬の頃でした。いつものように夕刊を配るために、カブバイクで自分の家から新聞販売店に向かっている途中に、突然頭の中が真っ白になりました。1秒か2秒くらいのことでしたが、もっと長く感じました。自分は外にいるのにその空間から早く逃げたいという気持ちになりました。気が狂いそうになるのを理性で必死にこらえていました。バイクに乗っていたので、風で涙が後ろの方へ飛んでいきました。おそらく悪性の広場恐怖だったのだと思われます。

 そんな日々も1年が過ぎ終わりを迎えました。両親の援助を受け療養生活をすることになりました。療養生活というのは、父から仕送りをもらい、一人暮らしをする。働きたければ働けばいいし、働きたくなければ働かなくてもいい。規則的に通院をする事。そして、あせらずゆっくり治していく事。それが僕の療養生活です。  僕はT市でアパートを借りることにしました。そして仕事は塾の講師。週3回。病院は自転車で10分のところにあるA神経内科。僕は2週間に一度規則的に通院する。サラリーマンから新聞配達、新聞配達から塾講師。どうなのでしょうか、このスタンス。パニック障害という病気さえなかったのならと、時々思います。塾ではほとんどパニック発作はありません。むしろ、始めたばかりの頃は楽しんで仕事をしていました。何かを人に教えるというのは自分が誰かに必要とされているのだと思いました。

 2005年1月、僕は先生に境界性パーソナリティー障害と診断されました。この時を境に、僕の人生は大きく変わりました。

 その時は境界性パーソナリティ障害についての知識はまったくありませんでした。家に帰りインターネットで隅から隅まで境界性パーソナリティ障害の事を調べました。やはり症状については殆ど僕に当てはまりました。誰かに見捨てられるのが怖いのです。おそらく僕が子供だったと時の家庭環境に起因している思われます。両親は離婚しました。寂しさで声をあげて泣いていた事も憶えています。とにかく孤独でした。言葉では例えようがありませんが、深淵に落とされた様な孤独感でした。
 インターネットで境界性パーソナリティ障害について調べていくうちに、僕の中で何か変化がありました。僕の今までの奇怪な言動の謎が全て解けたのです。ただ単に「人に見捨てられたくなかった」からなのです。それが分かると、まるで自分が生まれ変わったような感じがしました。その病気のせいでその奇怪な行動をするのだ。自分で自分の頭を殴る。リスカをする。自殺予告をする。眠る前に発作が起きる。「今日の最大の病気は らいでもなく 結核でもなく 自分はいてもいなくてもいい だれもかまってくれない みんなから見捨てられていると 感ずることである」。マザー・テレサの言葉です。まさにこの言葉どおりでした。幼少期、甘えたくても甘えられなかった僕は、大人になってから境界性パーソナリティ障害が発症しました。
 僕は自分が境界性パーソナリティ障害だと分かってから、人生を前向きに生きれるようになりました。原因があり結果がある。もっと楽に生きれる様になりました。他人から見たら、あるいはそれは些細な変化なのかもしれません。でも僕にとっては途轍もなく大きな変化でした。これからは自分の命を大切にします。



 僕はゆっくりタバコに火をつけ、窓から見える光り輝く朝日を見上げました。






今日の最大の病気は らいでもなく結核でもなく

自分はいてもいなくてもいい だれもかまってくれない

みんなから見捨てられていると 感ずることである


                        マザー・テレサ

wo yu jian ni shi zui mei li de yi wai
  我偶見イ尓是最美麗的意外  

       


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